政治家の常套句「記憶にございません」はあり得るのか?という問題

 

盛山正仁文部科学相の記憶が迷走し、国会を惑わせていた2月。

「記憶にございません」を連発する大臣に、そんなことあり得るのか?という問題が世間を騒がせた。話は遡ることたったの3年弱、2021年のことだ。

問題となったのは、盛山大臣が世界平和統一家庭連合(旧統一教会)と事実上の政策協定にあたる推薦確認書に署名したとされる件、自身の選挙応援を依頼したとされる件、協会側の集会に参加し、信者とハグしたとされる件などなど。

旧統一教会への解散命令請求を出した大臣が、教団とつながっていて、選挙支援を受けていて、というのだから、そりゃ問題視するのが当たり前、あれこれ追求するのは当然のこと。

ところが盛山大臣は問われる度に「覚えておりません」→「写真を見て薄々思い出してきた」→「記憶にございません」と記憶が変遷。                             推薦確認書とともに映る写真が出てくると「サインしたかもしれないが、記憶にございません」から「可能性はゼロとは言い難い」に変わり、記憶は迷走するばかり。

大勢の人達と会う政治家なら、記憶がなくてもおかしくないかもしれないが、「薄々思い出してきた」と言っておきながら、記憶にないと断言するのは、さすがにいかがなものかと思うよね。

 

ということで、記憶が変わるということはあり得るのか、といえば心理学的にはあり得る。

いや、もともと記憶は情報を正確に記憶しているものではない。                 だから変化してしまうのも当然といえば当然で、よく知られているのが誘導尋問による変化。            後から色々と情報や知識を与えられると、記憶は簡単に変化してしまう。           「後知恵バイアス」という現象は、無意識のうちに記憶を書き換え、誤った記憶を作り出してしまうものだ。

これは無意識のうちに記憶を作り変えてしまうという話だけれど、盛山大臣の記憶は、無意識のうちに記憶が消えたという話ではない。

実は意識的に記憶を変えることができる、らしい。

自分に何度も言い聞かせていると、なんだかそれが本当のことに思えてくるという認知の歪みはよく聞くところだけれど、ある実験によると記憶を思い出す時に、自分語りの一人称ではなく、3人称で俯瞰的に記憶を思い出すと嫌な記憶が薄れていくらしい。

部屋を入ると教団の幹部らが待っていた。挨拶を交わし、ソファにすわる盛山大臣。テーブルの上には何やら書類が置かれている。促されるままにそれに目をやると…3人称だとこんな感じかな。

記憶を3人称の視点で見ることで、他人事みたいな感じで思い出を捉えることができるんだそうだ。だとしたら、忘れたいと思っている記憶を3人称で思い出しているうちに、どんどん消えていく可能性があるってことだ。                                   

これは可能性があるかも?ってことだが、盛山先生は教団との関わりを記憶から抹殺。忘却の彼方へと飛んでいってしまったようだ。無意識なのか故意なのか。

自らの足かせになるような物事を記憶から完全消去する技があるなら、是非盛山先生に聞いてみたい。

 

 

 

 

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