謝罪会見なのに謝罪できないのはなぜか?・・・ 宝塚歌劇団を例に

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謝罪会見といえば、何らかの問題や不祥事を起こした企業や組織、人物が開くもの。ところが昨今は謝罪のはずが、なぜか釈明会見になり、なぜか自分たちが被害者になっていく会見が後を絶たない。

宝塚歌劇団が開いた1度目の会見もそうだった。

 

そうして3月28日、宝塚歌劇団が2度目の謝罪会見を開いた。今回はまともな謝罪会見。

宝塚歌劇団親会社、阪急阪神ホールディングスの嶋田泰夫社長は、「その責任は極めて重い」と語気を強め責めるような言い方をし、「取り返しのつかないことをしてしまいました」と「まことに申し訳ございせんでした」とひときわ大きな声で深々と謝罪した。

声のトーンや大きさが、謝罪する意思の強さを印象づける。声や話し方は謝罪において、とても重要な要素だ。

親会社の社長として、このような事案を発生させ、実効性のある体制が構築できなかったことについて「誠に申し訳ございません」と現在形で謝罪したのだ。

話の最後が過去形で終わるのか、現在形で終わるのか、聞き逃しやすいが、会見ではこの違いが重要な意味を持つ。

 

最初からなぜ、このような謝罪会見ができなかったのか。

沢山の事例がありならが、企業や組織はなぜその責任を認め、謝罪することができないのか。

 

歌劇団1度目の会見は釈明会見であって、謝罪会見とはいえなかった。

所属する25歳の劇団員が死亡し、原因が上級生からのパワハラと遺族が主張していたのに、出された調査報告書はいじめやパワハラは確認できなかったという結果だった。                     会見に出席した理事長をはじめとする幹部連もみな、それを信じ?パワハラを指導と言い換え否定したからだ。

劇団員や関係者から証拠や証言が出てくることだろうことや、世間から批判や非難が集中することなど想像もしなかったのだろうか。否定してしまえば、これで終わりにできると思ってしまえる心理が怖い。

そうはいっても企業や組織の謝罪会見では、とりあえず頭を下げているものの、最初から素直に過ちを認め非を認め、謝罪し反省するトップはなぜか少ない。

今は理事長となった村上氏は、前回の会見での発言について「改めてお詫び申し上げます」、劇団員が命を断ったことに「慙愧に耐えません」。その表情はおどおどし、視線は下を向いたまま、声は小さく力がなく、くぐもっていた。

質問されると「当時、ご遺族の思いに思い至らなかった」と答えた。村上理事長は前回も今回も、宝塚歌劇団が続いてきた年数とその歴史を何度も口にした。そんな組織が問題を起こすなど、あってはならなかったのだ。

 

自分がトップにいる企業や組織にそのようなことはあり得ない。                      マイナスになるようなことはあってはならない。

こんな思い込みが強いと、最初から問題や疑惑は否定されてしまう。そうして外的な状況を考慮することなく、相手の属性や内的な特性に原因を求めてしまう「対応バイアス」が強くなる。

さらに謝罪になると、                                         企業や組織の過ちが、そのまま自分の過ちになり、評価が下がるような気がする。              今まで自分が相手より高い位置にいたのに、謝罪することで自分低くなったように感じられる。                 非を認めないことで、自分が強くなった気がする。                            キャリアやプライドに傷をつくのを恐れる。                               謝罪は弱い者がすることで、恥だと思う。 

などなどの心理が働き、自分を守りたいという防衛意識が強くなる。                

人の振り見て、我が振り直せ、ということわざがある。                    ダメな謝罪会見の事例は、山のようにある。謝罪しなければならなくなったら、一度見て見てから、会見に臨むことをおススメする。

 

 

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