6日の「スッキリ」(日本テレビ系)でMCの加藤浩次さんが秀岳館高校サッカー部の段原監督が、生出演した際についたい嘘について激怒していた。
謝罪も釈明も嘘だと分かった時、監督がなぜ、生出演したかったのか気になった。 6日の「スッキリ」で加藤さんは、監督が生出演した経緯を、取材に行ったスタッフに自ら出演して謝罪したいと申し入れたのだと語っていたこともある。
わざわざ自分から出ようとしたのには、裏がある!と思うのが普通だ。 出演してまで騒ぎをおさめたいという意図なら、そこまでして隠したい何かがあると思うのだ。
25日の朝、「スッキリ」に出演していた段原監督の表情は硬かった。 緊張しているのだろう。目の周りの筋肉は動かず、全体的に強張った表情は“おびえているのに虚勢を張っている”そんな感じで、奇妙な印象を受けた。
段原監督の発言で、何かを隠そうとしたことがわかるのは、加藤さんが怒っていたこの発言だ。
「今回の暴行動画のようなシーンは見たことがありません」
加藤さんは監督にこう言っていた。「正直に言った方がいいと思うんですよ。一度もないと言って、これからSNSで俺やられたことがあるみたいなものが出てくる可能性がある」
それに対し段原監督は、“動画のようなシーン”を“見たことがありません”と答えたのだ。
この監督、質問の論点をずらしたな。
暴行について、あのようなシーンを見たことがないと弁明。
では、どんなシーンなら見たことがあるのか?
違う暴行現場なら見たことがあるのか?
見たことがなくても、暴行について聞いたことはないのか、知っていたのではないか?
もしかして自分が暴行に関わっていたことがあるのでは?
そんな疑問が次々にわいてきた。
謝罪に来ておきながら、遠まわしな言い方で質問に答えないとは。 この発言を聞いた瞬間、この監督の発言は信用できないと感じた視聴者もいたはずだ。 嘘をつく時に人は、遠まわしな言い方で論点をずらしたり、はぐらかす。
5日に行われた学校側の謝罪会見、監督は、自らは「暴力行為をしたことがない」と発言したが、生出演で嘘をついた人間の言葉を信用できるとは思えなかった。
嘘には大まかに2つの種類があると「暴かれる嘘 虚偽を見破る対人学」でエクマンは述べている。
1. 隠微すること…虚偽に類することは実際に何も言わないし、情報を与えない。 これは嘘が発覚しても、言い繕いや言い訳がができる。知らなかった、記憶にない、思い出せないなど、記憶の問題にすり替えることができる。見たことがないという発言も、この部類だ。
2. 偽装すること…本当の情報を与えない。あたかも真実であるかのように、偽の情報を与える。 こちらは隠されている真実が露呈しないようにするため、偽の情報を与える。謝罪動画について、アップされるまで知らなかったなどの嘘は偽装。 隠微するより、偽装するほうが心理的には負担がかかる。
巧妙に嘘をつくため、隠微と偽装が組み合わされる。
生出演では自分の感情も隠さなければならなかったはずだ。 暴かれることの不安と嘘をつくことの罪悪感からくる感情。そのため表情が強張っていたのだろうか。
最後にもう一度、謝罪したが、ここ数年の謝罪会見でみられるような頭の下げ方とは違い、ペコンと頭を下げただけの、あまりにも簡単な謝罪だった。
そ部員たちには、自分が一番の被害者だと言っていたというのだから、自分がなぜ頭を下げなければならないのかと思っていたのではないか。
最後の謝罪では、無理にきれいな言葉を並べ、前向きなメッセージを伝えなければという気持ちが強すぎて、言葉と言葉の間に妙な“間”ができていた。 心からの謝罪というより、なんとか取繕おうという意識が垣間見えたのだ。
よく嘘をつく時は、瞬きが多くなり、うつむいたり視線をそらしたり、身体を揺らしたりしやすいと言われるが、それは人によるし、大概はそのようなサインで誰かの嘘を見抜くことはできない。
自分からわざわざ生番組で嘘をつきに来るなど、誰も予想していなかったと思うが、自己保身に走る人間は、時として他人には理解できない行動をするものだ。